GRIN

ふがいない僕の社会距離日記

小躍りするほど

この季節になると、ヴィンス・ガラルディの『スヌーピーのメリークリスマス』を聴きたくなる。心地よさと小気味良さを兼ね備えたこのアルバムを聴いていると思わず体が揺れている。この思わず体が揺れるという現象は、自分にとってはとても稀なことである。しかし、あくまでも軽くリズムに乗る程度であって音楽とともに踊り出すようなことはない。

そもそも、これまで踊ることのない人生だった。いや、中学の林間学校でのキャンプファイヤーを囲んでのダンスならある。しかし、あれは強いられた踊りだ。踊るとは、なにか心から沸きあがるものがあり自然に手足が動いてしまうことを言うのだと思っている。そんな経験が自分にはなかった。踊るという行為は太古の昔からあるわけで、それこそ遺伝子に組み込まれた本能的なもののはずだがそれが自分にはない。

好きなアーティストのライブに行くと、音楽に乗って踊っている人がたくさんいる。そんな人を見ると羨ましく思う。今この瞬間を心から楽しんでいるのだと傍から見ても分かる。しかし、それと同時に自分にはあんなことはできないという恥ずかしさがある。なんとなく体を揺らすことで精いっぱいだ。この体を揺らすこともまた、本能的ではなくその場に馴染むことの表現でしかない。

なんでこんなことを書いているかというと、つい先日自分が販売している日記本を購入者に送るときにお礼の手紙に「部屋でひとりで小躍りするほど嬉しいです」と書きかけたがやめたのだ。なんだか「小躍り」の字面だけを見ると喜びが小さいような気がしてしまったのだ。この表現だと夕飯に好きなおかずが出てきたくらいの喜びとしか受け取られないのではないかという不安があった。しかし、人生で踊ったことのない自分としては小躍りなどそれはもう嬉しいことなのだ。もし相手が日常的に踊る人だとしたらどうしたらこの喜びを伝えられるだろうかと考えた。「大踊りするほど嬉しいです」と書いてみたがなんだかふざけているように思えた。そもそも大踊りとはなんだ。手足を大きく振り回し、頭をぶんぶん振っている姿が思い浮かぶ。ということは「部屋でひとりで連獅子を舞うほど嬉しいです」と書けばいいのか。たしかに小躍りよりはダイナミックさが伝わるが連獅子と嬉しさは結び付かない。喜びで連獅子を舞っていたらそれはもう狂気だ。喜びが伝わり大きな動作のある踊りはなにがあるだろうか。ソーラン節が思い浮かんだ。なんとなく動きも力強さがあるし、「どっこいしょ」と言っているのでポップさもある。「部屋でひとりでソーラン節を踊るほど嬉しいです」と書いてみた。『3年B組 金八先生』に感化された人にしか思えないような気がしたのでやめた。色々と考えた末に明らかに迷走し、「小躍り」に踊らされている。結局、お礼の手紙には、「手に取ってもらえて嬉しいです」というそのままの言葉を選んだ。

深夜、『スヌーピーのメリークリスマス』を聴きながら注文された日記本を投函しにポストまで歩いた。住宅街にある家々のいくつかの玄関先ではクリスマスの電飾がきらめいていた。心地の良い音楽を聴く喜びと、自分の文章を読もう思ってくれた人がいる喜びに歩きながら体が自然に揺れていた。ふと、今なら踊れるかもしれないと思った。こんな深夜だ、誰も自分のことを見ている人などいない。思い切って歩幅を大きくし飛び跳ねるようにトントントンとステップを踏んだ。わずかな手足の躍動だが、体の揺れよりはたしかに大きく、ああ今、自分は踊っている!と思った。しんと静まり返った12月の住宅街に自分の足音だけが響いていた。

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1994年生まれ。はてなブログにて日記を書き、本にしている。趣味は散歩。

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1994年長崎県生まれ。本を作るレーベル bundleを立ち上げ、編集をおこなっている。その傍ら私情的エッセイと詩の狭間で言葉を使った表現をおこない、2020年には初の詩集「いっさいすべての春」を刊行した。

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